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信長の経済学

織田信長といえば、その独創性と高い野心から非常に人気の戦国武将である。現在のポジションで彼を位置づけるとすれば、それは政治家というものがふさわしいだろう。この時代の政治家は特に多義的なことを求められている。その中でも経済は特に大事な要素となるだろう。

資本主義を先取りした

 

 信長の経済といえば、やはり楽市楽座を導入したことであろう。なんとなくその言葉だけが先行しており、実態はつかめていないというのが実情だ。信長の楽市楽座とはすなわち資本主義経済を導入したということである。それまでの経済は「座」と呼ばれる特権集団によって独占的に商売を支配していた。それを廃止して自由に経済をしてもよい、といったのが織田信長である。しかもここで行われる商売はなんと無税にしてしまったのだ。これによって商人たちはより一層経済活動に熱をいれることとなった。

 いまの私たちの観点からいえば、資本主義経済を取り入れたほうがいいというのは明白である。しかしそれは長年の実績と優れた理論によって私たちは安心して資本主義経済をよしとすることができる。しかし信長の時代は「座」が経済を支配するというのが、その当時では安定した経済秩序であったのだ。それを壊してしまうことは、容易なことではない。それをやってしまうだけでなく、資本主義経済をこの時代から取り入れてしまうという、信長の経済的感性は、控えめにいって天才であるといえるだろう。

貿易を重視

 

 信長の重要性を語るうえで欠かせないのは、キリスト教を容認したことだ。これ自体は今回のテーマではさほど重要ではない。そもそもなぜ信長がなぜキリスト教徒を容認したのか。それにはふたつ理由がある。ひとつは仏教徒の勢力をそぐため。もうひとつは南蛮貿易を推進するためである。仏教徒の話はまたのちの項目で語るとして、ここで重要なのは南蛮貿易というキーワードである。当時の南蛮船は、キリスト教徒の布教を許可してくれる港に率先して停泊していた。そのために南蛮貿易をはじめるためにはキリスト教徒を容認することが重要であった。この南蛮貿易とはつまり国際貿易のことである。国際貿易はイギリスを大帝国に作り上げ、産業革命を起こしたきっかけでもある。この貿易ということの重要性に目をつけていたのも信長の経済力のすごさである。

といっても南蛮貿易を信長自体が推進したわけではないようである。代わりに南蛮貿易に携わっていた堺の商人たちを通して、信長は間接的に南蛮貿易に携わっていた。現代の観点からいえば、投資をしてそこから実利を得ていたといえるだろう。このころの武将といえば、まずは農業を重視していたが、その中で貿易の重要性に気づく信長の経済的明敏性はまさにおそるべきものである。

通貨制度の導入

 さて、資本主義と国際貿易というふたつのすぐれた経済的な感性をもった信長であるが、金融面ではどうであろうか。現代では金融業を抑えれば経済を抑えることができる。もっとも儲かるのは金自体であるともいわれるほど、金融というものは重要である。ここでも信長は非常に優れた成果を残している。それは通貨制度の導入である。通貨とはつまり、コインであったり紙幣であったりするものだ。そんなことは現代の我々からすればあたりまえではないかと思うが、その当時はやはりそれが当たり前ではなかったのだ。その当時は中国から輸入された銅による通貨制度がなんとなしに使用されていた。また銅不足に陥り、贋金があたりまえのように流通していたのだ。それを抜本的に権力の力によって通貨制度を整えたのが信長である。まずは法律によって通貨制度を明確に確立させたことが一点。それ自体優れた業績であるが、ではそもそも足りない銅はどうすればいいのか。金と銀を通貨制度に信長は取り入れたのだ。金本位制がかつての経済の根幹であったように、金銀は通貨の大乗的なものである。しかし世界中をみても、この金銀を通貨として金融制度に取り入れたのは、実はこの時代では極めてまれだったのだ。確かに金銀で売買が取引されることはあったのだが、法的に金融制度として位置づけたこと自体は少なかった。信長のすぐれた金融手腕のひとつである。

まとめ

さて、信長の経済力を今回は見ていった。経済システム、国際貿易、金融制度とどれを見ても非の打ちどころがない。それぞれが資本主義や産業革命に結びつくような、いまなお重要視される制度を世界にも先駆けて取り入れていた男、信長。ひかえめにいって彼の経済的感性は大天才といえるだろう。信長は探れば探るほど、志半ばで倒れてしまったことが惜しまれる男である。

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