裏切りと言えば私達人類にとって切っても切り離せないものである。身近なところでいえば、友達の裏切りや、配偶者の不貞などがあげられるだろう。仕事上でも裏切りなど頻繁に起きている。人類史上を紐解いてみても、シェイクスピアの四大悲劇であるオセロは裏切りをテーマにしているし、カエサルは腹心であるブルータスによって殺害されている。
裏切りは我々のあらゆるところに潜んでおり、首根っこを切り取ろうと暗躍しているといっていいいだろう。
さて、天才的武将であった信長もその例に漏れることはなかった。むしろ信長こそ常に裏切りと寝室を共に生きた人物であるといえるだろう。
信長が出会った裏切りと言えば、明智光秀が真っ先に連想されるだろう。しかし明智光秀と同じか、もしくは心理的ダメージでいえばそれ以上のものを信長に与えたといっても過言ではない人物がいる。それが浅井長政である。
浅井長政とはいかなる人物か
浅井長政とは、戦国時代の武将である。場所は近江国である。現在でいう滋賀県に相当する場所だな。琵琶湖もあることだし、わりかしいいところの当主になったといえるだろう。1545年に観音寺城下に生まれ、そして73年に死亡する。だいたい28歳くらいで死亡したといえるだろう。肖像画ではだいぶおっさんのように見えるが、実際は非常に若くして死亡したといえる。死因は切腹である。もちろんこれは信長を裏切ったことが原因であるが、実はこの時に父親も同じく切腹しているのだ。
だがなぜ父親も一緒に自殺をしたのだろうか?というのも、なぜ父親が当主ではなく、長政が当主であったのだろうか?父親が若くしてなくなって当主を継ぐというのはよくある話だ。現に織田信長もその例に漏れない。しかし長政の場合は父親が存命であるにも関わらず彼が実権を握ったのにはわけがある。それは後の父親の項目で述べるとしよう。
いずれにせよ、父親と共に割腹自殺するというのも、歴史上稀なことだろう。そう考えると、信長という圧倒的な才能の影に隠れながらも、長政という人生には大きなドラマがあったことがなんとなく見えてくるだろう。
父親、浅井 久政について
父親の久政も同じく戦国武将だった。久政は父親が死亡したことによって一家の長になることとなった。つまり割りとよくある継承であったわけだ。しかし久政にはある欠点があった。
彼の父親、つまりは長政のじいさんは非常に勇猛な武将であったといわれている。一方で久政はあまりぱっとしなかったようである。
ぱっとしないことは戦国大名にとっては重罪ものとなる。実際に浅井家は六角氏にことごとく破れ、その支配下に入ることとなってしまったのだ。
六角氏、なんか強そうで怖そう。
今回の主役である長政も実はこの六角氏から名前をとっているのだ。
長政の名前はもともとは賢政という。この賢は六角義賢の字からきている。
まあそれを後ほど長政に改名するわけだ。
長政にとっては、自分の名前を敵将の名前をつけてしまうような父親だ。
そんなへりくだった父親をどう思っただろうか。
そしてこの長政は父親と決定敵に違う面があった。
それは戦争がうまかったということだ。
なんと長政は若干16歳で支配者である六角氏相手に勝利をしているのだ。
これは野良田の戦いと呼ばれている。
戦力的にも長政は1万弱に対して、六角氏は2万5000にも及んだ。
その戦力差は2倍以上である。
しかしこの厳しい戦いに若干16歳の長政が勝利したのだ。
実は信長という日本史の巨大なバグに隠されているだけで、
この長政という男は只者ではないのだ。
祖父の勇猛さを受け継いだのは、この長政であったのだ。
長政、16にして立つ
父親の隷属姿勢に嫌気が指した家臣が長政を擁立してクーデターを起こした。
それによってわずか16歳で長政が一家の長となる。家臣もかなり思い切ったことをしたものといえるが、それだけ16歳の長政にカリスマ性があったともいえるだろう。
しかしいざ政権を奪取したはいいものの、そこからは恐ろしい六角氏と戦わなければならない。
向こうのほうが当然格上の相手なわけだ。
1560年、ここに野良田の戦いがはじまる。
浅井はわずか1万1千。かたや六角は2万5千にも及ぶ。
その差は倍以上だ。
まず六角側は裏切り者の百々内蔵助を討ち果たす。
そして交戦がはじまるや、やはり六角氏が有利に進める。
しかしここで長政のカリスマが発揮される。
長政は軍全体を鼓舞する。
圧倒的大群にかこつけて勝利を確信していた六角側に猛反撃を加える。
徐々に戦況は浅井側に転がっていき、なし崩し的に六角軍は崩壊することとなる。
屈辱の年月と長政のカリスマが導いた勝利であった。
なぜ信長に組みしたのか
ここまで見れば長政という男は実は只者ではないことが十二分にわかっただろう。
本来なら物語の主役をはるにふさわしいような人物だ。
それがなぜ信長の家臣のような形になってしまったのだろうか?
まずそもそもなぜ長政は信長と同名を組んだのだろうか?
まず二人の関係はお市が嫁に入ったことからも明確である。
このお市とは歴史上でも美女として名高いだろう。
あの秀吉もお市には激しい求婚をしているように、お市とは政治的価値はかなり高かったといえるだろう。
そのお市を長政に嫁がせるわけだから、信長にとっては長政をかなり重要視していたことがわかる。
逆にお市を提供したことにより、この同盟は「信長側の圧倒的不利」
であったともいえる。
そうであれば、この時期においての長政と信長の同盟は、
むしろ信長のほうこそが必要であったともいえるだろう。
さて、この同盟の時期はいつだったのか?
それは歴史上でもまだ定かでもない。
ただ時期的には信長は斎藤氏と戦争状態にあった。
いっぽうで長政はやはり六角氏との戦争状態であった。
さて、長政と信長にはそれぞれ固有の敵がいたわけだが、
この敵がそれぞれ同盟を組んだとしたらどうだろうか?
つまり六角・斎藤同盟である。
この場合、長政と信長も同盟を組んで一緒に戦うというのは、
政治的に利に適っているだろう。
こうした理由で長政と信長は同盟を組むこととなったのだ。
しかし信長はまだ若い長政と、政治的な利点のために同盟を組んだとはいえ、
虎の子のお市をそのために嫁にだしているのだ。
そうとう長政を信頼していたか、または評価していたことが分かるだろう。
義兄、圧倒的なスピードにつき
さて、長政は歴史上にも美女と名高いお市を嫁にすることができたわけだ。
さらに義兄となった信長は見事斎藤氏を打ち破った。
さらに信長は非常に大胆な行動にでる。
「天下布武」を打ち出したのだ。
天下布武とは、その名を解読すれば、天下を武によって支配すると解釈することができるだろう。
つまり信長はこれによって天下統一を宣言したと言われている。
ここで使われた「武」が文字通り武力の武であるのか、それともより政治的な意味合いがあり、
「七徳の武」からきたのかは解釈の余地がある。七徳の武とは中国の史書からきた概念であり、
争いのない平安な時代を作ることを意味している。
はっきりいって信長というのは、相当の切れ者だ。
現代人の我々と比較しても、圧倒的な頭の良さがある。
単純に武力をもって世の中を制覇してやるぞという恐怖政治ではなく、
武力を手段として征服するとしても、より高度な政治形態を
つくりあげることを考えていたのは間違いないだろう。
そう考えるならこの天下布武は信長による「天下をとるという宣言」であると同時に、
日本をさらに高度に発展させるという「展望の宣言」でもあっただろう。
「海賊王におれはなる」で有名な某ルフィさんもそうだが、
こうやって自分のだいそれた目標を掲げるのはとても大事なことだ。
宣言することによって目標へと向かう大きな推進力となるからだ。
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さて、話を戻そう。
義兄である信長がこのように、『天下』へと手を伸ばし始めたわけだ。
しかもこれは信長が勝手に宣言しただけではない。
実際に足利義昭が信長に上洛を協力するように要請してきたのだ。
長政と同盟を組んだときには、同じ敵を相手をしており、
どちらかといえば信長の方が不利な同盟であったわけだ。
それが今や天下に手を伸ばそうとしている。
あっと言う間のスピードである。
この時の長政の心情はいかがなものであっただろうか。
実際のところは長政に直接聞かなければ知るよしもないが、
歴史とはそうミステリーなものではない。
つまりその人物の心情を知ることはできなくとも、
行動は知ることができるからだ。
いつの時代でも行動こそが言葉や心情よりも、
最も雄弁にその人の意見と思いを示しているのだ。
では実際にその長政の行動をみてみよう。
裏切りの兆しか?
信長が京都に入る際に、信長はなんとあの六角氏に協力を要請したという。
この頃の六角氏といえば、長政に破れて落ち目であった。
しかし信長は協力をすれば京都の守護職を与えると条件を提示した。
しかしこの条件に対して六角氏の返事は、拒絶であった。
さて、問題となるのは、このとき長政がどう思ったか、である。
落ち目とはいえ仮にもかつての仇敵に兄が同盟を申し出たのである。
特に長政の家臣は従属の屈辱を忘れてはいないだろう。
あまりいい気はしなかったはずだ。
だが信長が六角氏に協力を申し出たのには理由がある。
というのも、美濃から京都へと行くためには、
六角氏がいる近江国をおさえる必要があったためだ。
さて、信長は六角氏の居城である観音寺城を攻め込もうとした。
その時に六角により詳しい長政に協力を仰いだのだが、
それは当然といえば当然かもしれない。
結果論を先に言えば、長政はその要請に対して
兵を出すことはなかった。
というのも、長政は家臣の者たちと会議を開いたのであるが、
そこでは意見のまとまりを見なかったという。
それを見た信長の使者が諦めて返ってしまったようだ。
それを聞いた信長側も、笑って許したという。
さて、この二人の状況はいくつか推測することができるだろう。
まず長政側であるが、長政が独断で物事を決めるのではなく、
家臣たちの力がある程度大きかったということだ。
しかしこれはある程度もっともな話だ。
そもそも長政が政権を奪取できたのは、
父親の政権に不満を持った家臣と共にクーデターを起こしたからだ。
クーデターを起こすような家臣なら、権力の扱いは慣れているだろうし、
また不満があればクーデターを起こしかねない。
つまり長政は信長のように自分の意思を自由にとおすというよりも、
家臣といったいとなって総合的な決断を下す立場にあったといえるだろう。
これは長政と信長のドラマを少しややこしく、
またドラマチックにもする要素である。
だがそもそもこの時点で長政が裏切りを決めていた、
または家臣たちの間で協議していたというのも十分に有り得る話である。
一方で信長である。
なぜ義弟のこのような煮えきらない態度に笑って許したのだろうか。
まず考えられるのは、落ち目の六角氏を攻め落とすのは
そもそも信長にとっては大層な事業ではなかったからだ。
たとえここで長政の協力がなくとも六角打ちやすしと
踏んでいたのだろう。
心の余裕である。
もう一つ考えられるのは、六角氏に協力を申し出た
ことによる負い目であろうか。
長政の天敵であった六角氏に協力を申し出た、
断られたら今度はこっちに一緒に倒そうぜってきた。
こんなことされたらあなただって不愉快ではないだろうか?
ふざけてんの信長?とでも言ってやりたくなる。
次に考えられるのは義弟かわいさである。
義弟であることと長政本人に信長が魅力を感じてたのは、
おそらく確かではないかと思う。
また信長が笑った直接の理由を残された書物から
紐解くのなら。
「体たらくな家臣ども」
と一言で片付けられるかもしれない。長政本人よりも、むしろ家臣たちに
怒りをみせていたようである。
それはそもそも長政が出兵しなかった理由が家臣たちの間で
まとまりがつかなかったからである。
信長のほうでも長政の状況は掴めていたようである。
しかしこの時の信長は、まさか長政が裏切るなどと、
夢にも思っていなかった。
さて、長政には援軍がないと踏んだ信長は
そのまま六角氏を攻撃する。
六角は信長が彼の居城である観音寺城を攻め込んだとき、
城を捨てて逃げ出したという。
ともあれ信長の圧勝である。
たしかに協力した
さて、ここ一番の戦いに協力しなかった長政であるが、
その際に信長は観音寺城はいいから別の城せめてね、
と言ったそうだ。
この信長にとって重要な京都入場への行軍において、
おそらく長政は軍を派遣したようだ。
京都周辺で長政の軍隊が8千ほどが
確認されたとの資料がある。
これは確証があるわけではない。
少なくとも長政は信長のために
戦争などに参加しなかったのは確かであるようだ。
これで同盟国として信長に協力したことがあるのか
どうかといえば、甚だ疑問である。
結局二人の間ではそれほど劇的なことも起きず、
密接な協力も見られず、
長政は義兄である信長をそうそうに裏切ることとなるのだ。
1570年にその時が来る。
織田信長はなんと朝倉家に宣戦布告をしたのだ。
朝倉家は越前国に身を構えている戦国大名である。
問題は朝倉氏と浅井氏は懇意の関係であったということだ。
しかも長政の祖父の時代から続いていた盟友関係である。
これを信長が宣戦布告をし、金ヶ崎城を包囲したのだ。
この時に浅井の中では揉めに揉めたようである。
浅井の家臣の多くはかつての盟友である朝倉氏につくことを
主張したようだ。
先程もいったように、浅井は家臣が強い。
この家臣の意向を長政とて無視することはできない。
家臣が朝倉につくことを決議したのなら、
長政もそう決議せざるを得ないというのが現状であろう。
実際に長政は朝倉側につくこととなる。
これが信長にとっては驚天動地であったようだ。
金ヶ崎城を包囲していた信長の後ろに、
とつじょ長政の軍隊が現れたのである。
まさかの挟撃である。
信長はかつてないほどの境地に立たされることになる。
なぜ裏切った
通説では同盟関係にある朝倉氏に信長が攻め入ったからだというものだ。
この通説はもっともだといえるだろう。
義兄である人が祖父の代から懇意にしている国に攻め入ったのだ。
これはたまったものではないだろう。
なにしてくれてんねん信長である。
これだけでも十分に信長を裏切る理由になるだろうし、
そもそも先に裏切ったのは信長であると言っても過言ではない。
一方で通説は通説である。
常に通説にはそれを覆す説がセットになっている。
つまり朝倉氏と浅井氏はそれほど強い関係性に
あったわけではないということである。
それは浅井氏側と信長との関係性に起因するというものだ。
もともとは信長の方が不利ともとれる同盟関係を
築いた浅井と織田であるが、
現状では織田のほうがはるかに格上になっている。
それによってか、織田信長のほうが長政を格下として
扱っていたのではないかという説が浮上している。
本来は同盟であるはずなのに、
信長によってまるで配下のように扱われている、
そのことに不満をためていたのではないかという説である。
そして信長が背中を見せたところを格好の時期とみて
裏切ったというものである。
というと長政としては、
なんともかっこうの悪い話になる。
だがこの説はあながち間違いではないかもしれない。
というのも信長が長政の裏切りを知った時に
発したある言葉からも推察することができる。
それは驚天動地の出来事
さて、次に信長側の反応である。
長政の裏切りを知って信長はどう思ったのだろうか。
それは信長にとっては有り得べからざるほどの
出来事であった。
それは長政に背中を向けて城攻めを
している時点でそうだろう。
裏切ることを想定していたなら、
背中を見せるはずがない。
信長はこういったという。
「歴然のご縁者であり、さらには北近江の支配を委ねているんだし、
なにか足りないものなんてないだろう、裏切りなんて嘘だろ」
多少の意訳はあれど、だいたいこんなことを言った。
縁者であるというのはその通りだ。
しかしその次のセリフが気になる。
「北近江の支配を委ねている」
「不満はないだろう」
このふたつのセリフから確かに上から目線が見えてくる。
そもそも近江は長政の地域だし、信長に与えてもらったものではない。
委ねているというのが解釈の難しいところでもあるが、
さも信長の領土のように考えていると捉えることもできる。
長政からしたら信長てめえである。
そもそも信長のほうが圧倒的に上の立場であるのだから、
いかに義兄弟であり同盟であるといっても、
対等と考えるのは無理であろう。
ゆえにだからこそ、
このままではいかんと浅井側は不満に思っていた、
そう解釈する余地は十分にある。
ともあれ、長政の裏切りは信長にとっては
痛恨の一撃であった。
信長のセリフが不遜であったかはさておき、
はじめて長政の裏切りを聞いた時は、
そんなことあるわけがないと信じなかったようだ。
ちなみに信長のこの境地を救ったのが、
秀吉である。
信長が撤退する際に秀吉が殿を務めたとされている。
この秀吉が後にお市に執着するのだから、
なんとも運命を感じるものである。
快勝のあとに・・・
この金ヶ崎の戦いはもっとも織田信長を追い詰めた
戦といってもいいだろう。
信長の人生において絶体絶命のピンチであった。
それを無事にくぐり抜けた織田信長だ。
裏切りの奇襲など一度しか使えぬ禁じ手。
これから長政は、
直々に魔王信長と相対せねばならぬのだ。
それが姉川の戦いによってはじまる。
おの姉川の戦いは織田・徳川連合対、
浅井・朝倉連合との戦いであったが、
織田方の勝利に終わった。
むしろ長政は惨敗であった。
まともに戦えばこうなってしまう。
長政も祖父譲りの剛勇であり、
戦の才覚があるとしても、
天才とは無慈悲なものである。
しかしこの長政の一連の行動は、
周辺の者達を突き動かしたようだ。
三好三人衆などが挙兵し、
信長包囲網を形成する。
これによって長政はなんと
3年ものあまりに渡って信長と交戦することとなる。
最終的に織田信長が小谷城の戦いで、
長政に勝利する。
この際に長政は父親とともに
自害することになる。
まだ29歳の若さであった。
ところで発言権の強かった家臣たちは
どうしたかというと、
なんと終戦間近になって寝返りが多発したようだ。
結局大した大義も持っていなかったということだろう。
裏切りの果に
さて、この前代未聞の裏切り劇に対して、
信長はどのように対処したのであろうか。
ここが重要なポイントである。
信長は長政の長男である満腹丸を捉えた。
なんと当時わずか10歳であるのだが、
信長は関ケ原で満腹丸を処刑したのだ。
正直いまの我々の感性では理解できないだろう。
あなたも10歳のころを思い返して、
わずか10歳で処刑された万福丸の心境を
想像してほしい。
いや、おそらく我々には到底想像だに
できるものではない。
このような結果を迎えながらも裏切った家臣たちは、
正直腑抜けの集まりとしか思えなくなってくる。
さらに長政とその父親の頭蓋骨も宴会のさらしものにした。
信長といえばやはり頭蓋骨である。
信長はこのように徹底的に裏切りの報復をしたわけだ。
さて、この処置は果たして正しかったのだろうか?
長政の裏切りは関係性からも、
またその影響を考えても重大に処罰をしないといけない。
でなければ今後も裏切りを容認するということになってしまう。
徹底的に見せしめをおこなうことによって、
今後の裏切りの抑止として機能させたいところだ。
結果的にはこの厳罰はあまり効果がなかったと
言わざるを得ないだろう。
というのも、今後の信長の人生は
裏切りの連続であったからだ。
その最後すらも裏切りによって幕を閉じることとなる。
まとめ
さて、今回は裏切りをテーマに、信長と長政の関係を深掘りしてみた。
二人の同盟関係は信長の妹お市を嫁がせるように、
強固な関係のように思えた。
しかしそう思っていたのは信長だけであり、
長政は突然の裏切りをすることとなる。
それに対して信長は徹底的に長政を叩き潰した。
信長の立場から言えば、そうする以外にないというところだが、
しかし裏切りに対して報復したとしても、
今後の裏切りが経ることはないと信長の人生は教えている。
裏切りは良くも悪くも、その人の人生のあり方と
密接に関わっているわけである。
もし裏切りに出会ったなら、あなたならどうする?
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